明治政府から静内・新冠両群の支配を命じられた、淡路島徳島藩の洲本城代家老稲田九郎兵衛邦植の旧家臣546人は、明治4年4月中ころ洲本港を出港。5月2日に静内沖に到着し今の元静内に上陸した。 5月とはいえ、まだ冬の様子で緑の草木も見えず、寒さすら感じる地に上陸した人々は、住む家さえもない不安さに、女の人や子どもたちは、砂浜につっ伏して泣き叫んだと伝えられている。石碑の全体は船の形を表し、船首のところに直径15cm程の穴が空いている。この穴から遠くはるかな淡路方面を望めるようデザインしている。 |
稲田家旧家臣らが静内に移住した明治4年ころ、この地には場所請負人の漁場があり、その一帯に倉庫や番屋が立ち並んでいた。一定の家屋を持たなかった移住者たちは、この番屋などに分宿し開拓にあたり、故郷から携帯してきた家財道具などは、東静内にあった元場所請負人佐野専左衛門の漁場倉庫に保管していた。7月30日、失火によりその全部を消失するという不慮の災禍に遭い「北海道の寒さは厳しくとうてい耐えきれるものではないだろう」と用意してきた丹前や夜具などの類を向寒の季節をまえにして全部消失してしまったのである。 |
松前藩の勢力が次第に強まった1600年ころ、豊富な産物を有する日高沿岸に静内場所が開設されたといわれている。知行主である場所持ちの家臣はその知行地でアイヌの人々と産物の交易をし、利潤を得ていた。しかし、武士の商法は合理的なものではなく、商人から借金をして生計をたてる者もおり、次第に一切の権利を商人に委ね場所請負人制度としてその形をかえている。これらの交易が行われていた所が運上屋であったが、1802年幕府が松前藩からこの地に上陸し運上屋も静内会所と改められ、全てを幕府の監督のもとに運営されることになった。 |
明治5年8月、文部省は学制を発布したが、それ以前、静内でも教育が行われていた。明治4年12月、静内に移住した旧稲田家家臣たちによって寄宿制の私塾益習館が開設されたのである。校名の益習館は、郷里淡路にあった稲田家の学問所名をそのまま用いられた。その後、目名に校舎が移され通学生の目名教育所と改称されたが、これが今の高静小学校の前身とされ、本道の教育の先駆けともなった。明治8年当時の課程は、毎朝8時から4時までの授業で生徒は32名であった。 |
静内町に町役場の前身である戸長役場の設置を見たのは、明治13年2月のことである。これは、開拓使が明治12年従来の北海道大小区画制を廃し、郡区町村制を編成して全道に18ヶ所の郡役所をおき各郡に戸長役場を配置することになったためであった。新戸長として三善歩が任命され静内・新冠両群の事務を処理することになった。映画の中の戸長「倉蔵」は、詐欺紛いの手段で恩を着せ、戸長となったが、史実ではそのような記録はない。 |
稲田家先祖代々の祖先が祀られている霊社で、もともとは洲本市の稲田屋敷裏に祀られていましたが、移住とともに明治4年9月にこの地に移された。映画では、志乃が降りしきる雪の中この神社を訪れ、いつまでも戻らぬ夫・英明の帰りと無事を、降りしきる雪の中祈る場面が印象的であった。 |
明治4年静内に移住してきた、元洲本城代家老稲田九郎兵衛邦植の屋敷のあった場所である。この屋敷が、稲田家臣たちの中心となり、東西にのびる道がつくられた。稲田家臣たちは、開墾生活の苦痛に耐えきれず本州に戻る者や、望郷の念にかられるものも多かった。それは主君である稲田邦植の静内移住が実現されていないことにあったといわれており、邦植が静内に家族とともに移住してからは、家臣たちも土着心に目覚め本格的な静内の開拓にあたったといわれている。しかし、邦植は静内には居住せず弟邦衛が長く居住した。映画では、棟上の日に大人も子供も一緒に喜びを分かち合うシーンが印象的である。 |
静内を開拓した先人たちの偉業を後世に伝えようと建立された。碑の製作者は、札幌市の彫刻家竹中敏洋である。画像は、1、稲田騒動 2、先発隊出帆 3、本隊上陸 4、火災 5、平運丸遭難 6、開拓 の6部作からなっており、映画でも、武士はもちろん妻や子供たちも力を合わせ生い茂る原生林を切り開き、道路や農地をつくる姿が描かれたが、北辺開拓の礎は、そんな120年前の劇的な状況や開拓の苦心が克明に刻まれている。 |
静内町内に所在する遺跡から出土した考古資料を中心に、郷土史料、植物標本、農林水産業に関する資料などを展示している。また、稲田家所縁の狛犬・稲基社幣帛・杯・鏡・甲冑・一輪挿し・祭文の展示もおこなっている。静内の歴史をさらに深く探索しようとするなら、北海道移住回顧録や静内歴史小辞典などの刊行物も購入することができる。(開館時間は、午前9時〜午後5時まで、入館無料、休館日は月曜日及び祝日の翌日となっている。) |